角川映画祭トークショーに、元宣伝プロデューサー(現、東映株式会社顧問)遠藤茂行氏登壇!【前編】

21日、角川シネマ新宿にて7月30日(土)~9月2日(金)にて開催中の角川映画祭に、『Wの悲劇』(1984)公開当時の宣伝プロデューサーだった遠藤茂行氏(現、東映株式会社顧問)が登壇しトークショーを行なった。あの時代だったからこそ仕掛けられた名宣伝手法の数々、薬師丸ひろ子らスターの素顔についてなど、秘蔵トークで場内大いに盛り上がった。MCは元キネマ旬報編集長・映画ジャーナリストの植草信和が務めた。

◆トークイベント

植草:今日はお暑い中、お越しいただきましてありがとうございます。今日は角川映画の宣伝をずっと担当していました遠藤さんをお迎えして、40分くらいトークしたいと思います。よろしくお願いします。

遠藤:よろしくお願いします。東映の遠藤です。

植草:遠藤さんは東映の洋画部に入られたのは1979年ぐらいですか?

遠藤:そうですね。もうちょっと前なのですが、植草さん歴史をよくご存知だから洋画部とおっしゃいましたが、洋画配給部と名前が変わっておりまして、東映の邦画ではなくて、ジャッキー・チェーン、ブルース・リーの映画とかを洋画をやっていたセクションが編制を遂げて「洋画配給部」という洋画系に邦画を配給する「洋画配給部」というセクションになりました。経理から移動したのはそのあたりです。

植草:今日観ていただいた『Wの悲劇』ですが、これは最初からご担当だったのですか?

遠藤:もちろんそうですね。僕が薬師丸ひろ子さんを担当したのが『セーラー服と機関銃』からです。その前に『戦国自衛隊』で1日だけ、武士をやっておりました。台本の上では「少年のような武士」と書いてあります。その現場も含めて薬師丸さんとの仕事が始まりました。

植草:それ以来ずっと、薬師丸ひろ子さん、原田知世さん、渡辺典子さんを担当なさってたのですね。

遠藤:はい。『セーラー服と機関銃』が終ってしばらく薬師丸ひろ子さんの仕事が若干空いた時期があって、その後「第二の薬師丸ひろ子を探せ!」と言うイベントが角川さん方から話しが来まして、そこでオーディションで渡辺典子さんがグランプリをとられて、原田知世さんが特別審査員賞をとって、この二人が選ばれました。それ以降、三人娘と言っては申し訳ないのですが、二本立ての映画を次から次に作っていくことになります。

植草:それでは、今日は、その三人娘の話を中心に色々聞いていきます。『セーラー服と機関銃』がブレイクした最初と考えてよろしいでしょうか。

遠藤:何をもってブレイクと言っていいのかというところもありますが、興行的って意味では、それまでデビュー作の『野生の証明』、『翔んだカップル』等、薬師丸ひろ子さんの当時の年齢にあった学園ドラマがありました。そういう意味では『セーラー服と機関銃』、学園ものの延長にはあるのですが、ここで初めて当初予定にはなかった主題歌を薬師丸ひろ子さんが歌うことになりました。これは相馬監督のアイデアで「お前が歌った方がいいよ」って話になって、当時のキティレコードの多賀さんと角川春樹さんで「であれば」ってことになって、話がトントン拍子になっていっていきました。歌を歌うという事があらゆることで大ブレイクになっていったと思います。

植草:当時、大変なイベントをやられましたよね。

遠藤:そうですね。今思うと無謀な事をやったと思っていますが、新宿駅前にスタジオアルタということろにバルコニーというところがありまして、そこで薬師丸ひろ子さんの歌を発表しようと言う事で、「ヒロコDEデート」という企画を自分が宣伝でしたのでプロデューサーして、それが駅前で入場制限とかはなかったものですから、ここまで集まると思わなかったのですが、当時の警察の発表で2万5千人くらい集まりまして、上から見ると波のようになっていました。舞台イベントが終ってマスコミ用にもう一回だけバルコニーに出てもらって、それで手を振ってもらったのですね。そうしたら、バルコニーの下のお店に観客が押し寄せて、色々なお店のものが大変なことになったのですね。今思うと事故がなくて本当に良かったのですが、靴が片方あちこちに散乱いてまして、当然始末書も書きまして、話題にはなったというだけで。(苦笑)当時は、まだ、「よくやった」と言われた時代だったのですが、今だったら「バカヤロー」と怒られましたね。会社にはほめられましたが、警察には叱られました。

植草:それからですか?野球場とか競馬場とか。

遠藤:そうですね。毎回とにかく危なくない事を考えていましたので、里見八犬伝とか時代劇もありましたので、「その姿のままで、どこかでイベントできないかなぁ」とみんなでなんとなくお酒飲みながらみんなで考えまして、言われてみたら競馬場でできるなら競馬場でやったらと思いまして、競馬場にお願いしてみました。最初は、断られたのですが、どうやら一番トップの会長さんがお孫さんに話したら「薬師丸ひろ子さんと言えば若い人に大変な人気があるのに何をやっているのだ。」ってことになったようなのですね、真田広之くんも一緒に出演していましたし、当時JRAは若い人を競馬場に呼び込もうということでキャンペーンをしておりましたので、翌日に「是非、お願いします」って話になりました。

そうすると阪神競馬場からも「うちでもやってくれ」って電話がかかってきまして、出演者全員がそろうのはその日しかおさえてなかったので、角川さんとも相談して、じゃぁ午前中に阪神競馬場でやって、新幹線じゃまったく間に合わないからジェットヘリを飛ばしてもらって、私だけ私服で、里見八犬伝のみなさんは全員衣装を着たまま阪神競馬場から乗り込んでもらって、途中、名古屋でちょっと給油して、名古屋から東京競馬場にくるというイベントをやりました。

後は『探偵物語』という映画では、彼女が『セーラー服と機関銃』から1年半スクリーンから遠ざかっていたのが、久しぶりに元気な姿を見せてくれるということになりましたので、安全と大勢に集まっていただける場所と言ったら野球場かなと。そこで「ヒロコーズ」という野球チームを作りまして、ご本人の背番号は当然「8940(ヤクシマル)」という優先番号にしていただいて、今、「東京ドーム」になっていますが、当時、「後楽園球場」というのがありまして、そこで真田広之さん、志保美悦子さんもいるジャパンアクションクラブとチームと対戦し、大阪では吉本の若手チームと対戦、名古屋では、ラジオが盛んで名古屋のラジオのパーソナリティーの方がたくさんいらっしゃるチームと対戦して、西鉄ライオンズのOBチーム、仙台、北海道と全国7ヶ所でイベントをやりました。

そこで本人が『セーラー服と機関銃』と『探偵物語』の主題歌を歌うというミニコンサート付き野球イベントをやりました。

植草:当時、そういうイベント的な映画の宣伝はそうなかったですよね?

遠藤:多分、通常のイベント費用だけで映画の宣伝費吹っ飛んでますからね。『探偵物語』に関しては、実は飲料メーカーとタイアップも取れてまして全部、テレビスポットに関しては、角川書店の書籍の方のプロモートが別にありまして、本は本の方としてテレビスポットが流れるということもありました。映画会社がどういう風に映画あてるか役者をどうやって稼動させていくかに、どれだけ盛り上げていくかが問われる時代だったので、後の方にお金をかけるというよりは、パブリシティーの方にお金をかけるのが当時の角川映画さんのある種モットーと言いますか、映画を作る事と同じくらいのエネルギーを「作ること」と「売ること」を同じくらい戦略的に組み込まれていましたので、どうイベントをやるかは常に求められていました。

植草:当時の映画界と言うのは、いい映画を作ってしまえばそれで良しと、後は新聞広告をうって告知っていうパターンだったと思うのですが、まったく違う発想だったのですね。

遠藤:僕は当時、映画の宣伝担当として、必ず映画の企画の段階から参加させていただいて、共演者であったり、主題歌の作詞、作曲家は誰にしたらよいのかを求められる立場でもありましたので、時代の先端を行っている人達に対するアンテナを高くしていないとちゃんとした説明ができませんからね。

宣伝だから別にできあがったものを売るんだとというこれまでの映画会社がやっていた事とはかなり違う物を求められていました。その事が後々僕がプロデュースをやっていく上で、それが大事なこととして当たり前のように身についたってことで僕自身も非常に感謝しています。

植草:だいたい新聞広告がメインで、それまでテレビスポットをうつという発想自体がなかった時代だったんですよね。

遠藤:まったくなかったですね。『犬神家の一族』から始まって、映画サイドからテレビスポットをという発想は既存の映画会社にはありませんでした。ですので「あーテレビを使うんだ。凄い戦略を使うんだな。」と思いました。テレビスポットを使う時には映画の主題歌も大変効果的に使っていまして、「映画の宣伝」「書籍の宣伝」「音楽の宣伝」という三位一体の立体的な宣伝、今でいうところのメディアミックスの先駆けなんじゃないでしょうかね。

植草:パイオニアには色々な批判もついて回るのですが、功罪もいろいろあるかと思いますが。

遠藤:僕らが残念なのは、作品のクォリティーが誰が観ても凄いいい作品なのに、まだ、なんとなく話題優先の映画っていう風に括られた時期が最初のうちはあったのですね。しかし、若い人は大変面白がってくれましたし、大変動員数もあった。話題賞は取れるのですが、本賞にはなかなかノミネートされないって時代がありましたね。

植草:そういうイメージを覆したのが今日観ていただきました映画『Wの悲劇』で、この作品は「映画賞」「演技賞」「監督賞」たくさんの賞を取りましたね。

遠藤:そうですね。この作品の当時の薬師丸ひろ子さんはもっと評価されても良いと思うのですが、やっぱりこの作品で三田佳子さんが、はじめて助演に回った作品なのですね。監督の澤井さんが元々東映の監督さんでして、助監督時代から随分三田佳子さんの映画におつきになっていた助監督だったので、その澤井さんが監督をされるということだったので、出演されたというのが大きかったと思います。

関連記事:角川映画祭 『Wの悲劇』 32年ぶりの舞台挨拶に澤井信一郎監督、三田佳子登壇!

三田さんが出演があの作品を盛り上げて下さったことは紛れもない事実です。そして薬師丸ひろ子さんが、二十歳になったということで、僕らの宣伝コピーも「少女から女(おんな)へ」ってしまして、等身大の二十歳の薬師丸ひろ子さんの為にどうやっていったらいいのか僕ら制作チームも喧々諤々でやっていました。

【後編】へつづく

角川映画祭は、角川シネマ新宿にて絶賛上映中!

最新情報は、角川映画祭公式サイトへ

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